2026.03.24
【バイスタンダーエピソード】『未完の愉悦』

卵から飛び出すのが、嘴か、爪か、水かきかなんて、孵るその日まで分からないでしょう。
えぇ。あくまで卵の話です。
預かり物の卵なので、何が孵るか分からないんですよ。
親はどちらも血統書付きの立派なバケモノです。だからといって、子もそうなれるとは限らない。血だけで人生が決まるなら、こんなに単純なことはありません。
たとえばそう、私に流れている血はありふれた雑種犬と大差ありません。ですが人生の中で、良い本と出会い、知識と教養を授けてもらい、それを元手に世を渡るうち、こうして血統書付きの卵をお預かりするありがたいお役目を頂戴しました。これは人の人生が生まれではなく、どう生きたかという筋書きで決まるとの証左になるでしょう。
だから、この卵も同じです。素晴らしいお家柄から何が生まれるかなんて、孵ってみないと分かりません。
あくまで卵の話ですよ。
それにしても、卵を温めるのは実に退屈な作業ですね。一定の温度に保ってやるだけでも面倒なのに、殻があるくせに落ちれば割れますし、手足もないくせに毎日決まった時間に転がさないとダメだったりと、随分と手間がかかる。
モノが命になるというのはそういうことなのでしょうね。丹精を込められたからこそ、命として芽吹く。
そして、自我を持たずにコロコロと転がされているうち、どうやらなんだか違うと気付いて、この仕組まれた環境からどうにか抜け出そうとする。そうやって必死に足掻くうち、不意に、殻から何かが飛び出す。その瞬間は、少しだけ楽しみです。
私は整ったものが好きです。ですから、卵のつるりとした表面も、左右均等な完璧な形もお気に入りです。でも、そんな美しさはすべて、殻が破壊される瞬間をよりいっそう味わうための前フリに過ぎないんです。美しい殻を脱ぎ捨てて生まれるものがどんな有様なのか、考えるとワクワクします。
だから、この退屈に耐えて、懇切丁寧に卵の面倒を見ることにしたんです。
面白いもので、こんな状態でも時々、自我の芽生えを感じるんですよ。きっともう足掻いているんですね。これが命の輝きと呼ばれるものなのでしょうか。見た目は無機質なのに、こんなちっぽけな机に収まってなんていられないとでも言うように、たまに、卵が自分で動くんです。
かわいらしいものですよね。殻の外に何があるかなんて知りもしないのに、それでも冒険したいと望むんですよ。机の縁から落ちたら死んでしまうのに、そんなことお構いなしで転がっていこうとするんです。
それを見ていたら、なんだか楽しくなってしまいまして。
あぁ、いえ。もちろん、卵をわざと危険な目に遭わせるつもりはありませんよ。無茶して割れそうになる前に助けるつもりです。
でも……羨ましくもあるんです。
冒険を望む気持ちは、私にはないものですから。私はただ生きているだけで、それが退屈で仕方ない。
だから、冒険しようとする卵にあやかっているうち、私の人生にも何か、面白そうなことが起きないかと期待しているんです。
ただの、卵の話ですけどね。
著:佐久田 葉