2026.03.11
【バイスタンダーエピソード】『ぬくもりは、とおく』

家から逃げて、歩いて、歩いて、そのうちだんだん足に力が入らなくなってきた。
視界がかすんで、世界が揺らいだとき、ようやく自分が倒れたのだと気付いた。
そこを拾ってくれたのが、サツキさんだった。
目が覚めて最初に食べさせてもらったのは、見たことのない料理だった。ジャガイモ、にんじん、タマネギ。よく見知った食材が、初めての味付けで出てきた。
「こ、こんなに、もらっていいんですか?」
と怯える僕に、サツキさんは親切な笑顔でおかわりをくれた。
愛想良く出来てるかな。ちゃんと感謝は伝わってるかな。
悪い子だと、思われないかな。
そう思いながら食事をしていると、サツキさんは少し笑って、僕の頭をぽんと撫でてくれた。
「えぅ、ぅ……」
自然と、喉の奥から綺麗じゃない声がこぼれた。耳障りだから消さなきゃと思って一生懸命口を押さえた。
でもだめだった。
声は後から後からこぼれてきて、そのうち、目頭まで熱くなってきて、とうとう、抑えきれなくなった。
そんな僕を、サツキさんはずっと、温かく見守ってくれていた。
その日から、僕はサツキさんのところで暮らさせてもらえるようになった。
寝るところ、食べるもの、帰る場所。サツキさんは、僕が憧れていたものを全部くれた。
ここに、ずっといていいのかなと、思っていた。
最初の、うちは。
授業参観のプリントが配られた。保護者のサインをもらうように言われたその紙を見て、サツキさんは少し困ったような顔をして、これに署名するのは自分で良いのかと僕に確認した。
上手く返事が、出来なかった。
サツキさんは、僕に雨宿りさせてくれているだけで、僕の親になってくれるわけじゃない。きっと、きっと、この人は、あの日倒れていたのが僕じゃなくて猫でも、同じように手を差し伸べて、助けてくれた。
そう思ったら、言葉が出てこなくなった。
頼り過ぎてしまったと思った。僕は、ただの、落とし物だ。これ以上迷惑だと思われないように、引き際をちゃんと、間違えないようにしなきゃいけない。
思わず一歩後ろに引いた僕に、サツキさんは何かを言おうとした。でもそれを聞くのが怖くて、そのまま逃げた。だけど、逃げ込んだ先も結局、サツキさんが用意してくれた部屋だった。
しばらく部屋で隠れていると、美味しい匂いがしてきた。
「サツキ、さん」
と呼ぶと、サツキさんは穏やかに僕を振り向いて、ご飯にしよう、と、声をかけてくれた。
これが今の僕の幸せなんだと、思った。これ以上を望んで壊してはいけない、とも。
僕は席に着いた。
夕飯のボルシチは、変わらず、美味しかった。
著:佐久田 葉