2026.07.06
【ブックマークエピソード】敬古

【敬古】-ケイゴ-
古きものにこうべをたれ敬う
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三条の書が好きだった。
俺もいつかこの一部になりたいと思った。
俺の手で、書を次に継ぎたいと思って、三条の当代に憧れた。
けど俺は、次男だった。
物心ついたときには、当代は上にいる兄であることが薄々理解できた。
兄とは、ほとんど話したことはなかった。
兄は幼い頃から家のツテで、いろんな先生の元を訪れて特別な教えを受けていたし、家にいるときも、立ち入り禁止の書斎で、俺が読むのを許されなかった一子相伝の本を、たくさん読ませてもらっていた。
兄は、俺や姉とは別の世界で生きる、特別な人間だった。
それでも、未熟だった俺は諦められなかった。
生まれた順番が遅れたせいで大好きな書の全てを継げないなんて、認めたくなかった。
必死に頑張れば、きっと兄より上手くなれる。
向こうには先に生まれた分の蓄積があるけど、必死に練習すれば、その差もきっと埋められる。
兄を追い抜くことが出来たら、いつか、俺だって、もしかしたら。と。
当代を願うことの意味を、深く考えもせず、ただ一番上手くなりたくて、必死に書いて、書いて、書いて。
そうするうち、目だけ肥えて、自分は凡庸だと理解できてしまった。
かつての兄の年齢を追い越しても無駄だった。
中学になっても、小学生の兄が書いた書に遠く及ばないと、理解できてしまった。
最初は思い込みだと思いたかった。
自分を追い詰めすぎたから、他人の良いところばかり見えて、自分の欠点ばかり目につくのだと。
現に、学校の書道ではちゃんと金賞をもらえている。
だから、客観的に見れば、自分の書だって、きっといいところがあるはずだと。
それで、兄の元を訪れた外の先生に、俺の書を見てもらった。
彼はすぐ、眉を寄せた。
それからぱらぱらと軽く指の先で俺の書をめくり、ため息をついた。
「君はやめた方がええ」
心臓がギュッと痛くて、息が出来なくて。
その場にいたら泣き叫びそうで、逃げ出したのを覚えている。
書が好きだった。大好きだった。
だけど、千年を継いだ天才たちに、憧れ程度で追いつける筈がなかった。
俺の命程度、燃やしたところで、何にもなりはしなかった。
自分の書が、大嫌いになった。
俺に才能なんてない。
ただ三条と同じ血が流れているだけの、凡人。
もうやめてしまうべきだと思って、全ての道具を庭に埋めた。
それなのに、翌朝には、土を掘り返していた。
いつだって、気がついたときには、墨を擦って、筆を握っていた。
この鍛錬に意味がないことを理解できる理性なんて、三条の書に憧れたときに、焼き切れていたんだろう。
悲しいのに、苦しいのに、それでも、三条の書は、俺の憧れだった。
そんなある日、兄が俺の元を訪れた。
「ユウヤ」
久々に、兄の顔を見た気がした。
実力は雲泥でも、顔のつくりだけなら、俺は兄とよく似ているのだと知った。
「三条の書が好きか?」
気の利いた返しは浮かばなかった。
「何当然のこと聞くん」
兄は、力の抜けきった様子でヘラッと笑った。
「ほな、後のこと頼むわ。俺には資格がないねん」
兄が何を言っているのか理解できなかった。
呼び止めようと立ち上がったときには、兄はもう、姿を消していた。
あとで聞くところによると、兄はその足で、そのままポンと出家してしまったらしい。
三条の、千年の歴史で凝り固まった書が、不自由で好きになれなかったと。
自分の書は目の前の人間に届けたいし、額縁に飾られてありがたがられるのは薄気味が悪いと。
歴史の継承より、自分の今の書を楽しむ人生に魅力を感じてしまうから、先代へ敬意を払うべき当代にはなれないと。
そんな好き勝手を言い残して、兄は、三条の血を、千年を、ぽいと捨てた。
握った手のひらから血がポタポタ落ちた。
俺の欲しいもの全て持ってるくせ、この世で一番尊いものを軽く捨てる無神経さが、理解できなかった。
三条は上を下への大騒ぎになった。
そうして、しばらく経つ頃に、俺に、次期当代の座が転がり込んだ。
これまで俺を相手にしなかった親族たちが、さすが三条の当代だと、俺の書を褒めちぎった。
座る椅子が変わっただけで、俺自身は、平凡なただの下手で、兄の足下にも及ばないままだった。
兄を教えた師たちからは、たびたび兄の話がこぼれた。
あれは千年に一度の逸材だと。あれは書の神に愛された神童だと。
じゃあ、神童ですらなく、生まれ落ちた瞬間に三条の血にすら見放されていた俺は何なのだろう。
筆を握る資格すらなかったはずなのに、それでも目こぼしされ続ける程度の、ちっぽけな横好き。
天才の気まぐれに振り回されて、三条の歴史に空いた穴を埋めるために、仕方なくあてがわれた鼻つまみ。
本来、三条の書はきっと、兄の手で継がれるべきだった。
兄が三条の千年に加えるはずだった色は、きっと、三条をもっと豊かにしただろう。
大ッ嫌いな書しか残せない俺に、同じことが務まるわけもない。
だけど、ここで俺が三条の千年を途絶えさせてしまうことも、許せなかった。
自分の下手な書を見るたび、不安が押し寄せる。
千年継がれた美しい墨を、俺の代で台無しにしてしまう。
喉をかき切りたくなるほど自分が憎い。この下手くそが当代だなんて許せない。
いっそ本当に、首を切ってしまえば、兄が当代に帰って素晴らしい書を残してくれるんじゃないか。
だけど、三条の千年に敬意のない男が当代だなんて、俺は絶対に、許さない。
あんなバカに、当代は譲れない。
そうして何とか思いとどまる日々を、重ねている。
血を捨てたくせ、兄から届く暑中見舞いや年賀状の書は、三条の本物の当代として、千年を継いだ美に満ちていた。
俺は次代のため、兄からのハガキを、一子相伝の書棚に保管した。
自分の書はまだ、一つも残らない。
著:佐久田 葉