2026.07.20
【ブックマークエピソード】絆繋

【絆繋】-バンケイ-
だれもさびしくないように、絆で繋ぎとめる
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言葉は、相手を知らない限り届かないのだと知った。
小さい頃から、本を読んで新しい事を知るのが大好きだった。
本と出会うたび、自分の世界がぐんぐん広くなっていくのが分かった。
本で読んだ現象を目の当たりにするたび、ワクワクした。
知っていることが増えるたび、世界が色づいた。
きっとあらゆる本を読めば、自分の世界はとてつもなく大きく、広くなる。
俺は夢中で、好奇心のままに本を読みふけっていた。
そんな世界の中で、唯一入れない場所があった。
おとんの書斎。
うずたかく本が積まれた、光の入らない部屋。
おとんはいつも、ひとりぼっちでそこにいた。
元は有名な大学で博士をしていたらしい。だが教鞭を執る席には着けず、今では地元の企業に勤めるサラリーマンだった。おとんはそれでも学問を諦められなかったんだろう。仕事から帰って夕飯を終えるとすぐ書斎にこもっていたし、休日も同じように、自分の世界に没頭していた。
俺は、幼心におとんを心配した。
ずっとひとりぼっちで、さびしくないんだろうかと。
せっかく本を読んでいろんなことを知っても、誰にも喋れないんじゃ、つまらないんじゃないかと。
思い切っておとんに直球で打ち明けてみると、おとんは困惑した。
それから「お前には難しくて分からへんよ」と、なだめるように俺の頭を撫でた。
その日から、いつかおとんといっぱい喋れるようになるのが、一つの目標になった。
今はまだ知識が足りなくても、いっぱい本を読んで、賢くなって、おとんも知らないようなことを知っている俺になれたら、きっとおとんとも話せるだろうと。
そんな気持ちで本を読む俺を見て、母は「おとんそっくりやなぁ」と、どこか嬉しそうに笑っていた。
おとんはそれに気付いていたのか、いなかったのか。
休日に本を買いに行くとき、俺を連れて行ってくれるようになった。
おとんが不器用に俺の手を引いてくれたのも、本を読む俺の頭をぎこちなく撫でてくれたのも、俺にとっては温かな思い出で、おとんが不慣れな愛情を向けてくれているのは、理解出来ていた。
おとんは時折、俺に本をくれた。会話が苦手なおとんは、本を通じて、俺を教え導いてくれた。
買ってもらった本の話をすると、おとんは少しだけ微笑んだ。俺の感想を、頷きながら聞いてくれた。
俺は、おとんと過ごす時間が大好きだった。
だけど、中学生になった頃、ある日を境に、おとんは書斎からほとんど出てこなくなった。論文を書いているから邪魔をしちゃダメだと、母に言われた。
もしかしたら大学に戻れるかもしれないと。だから邪魔になっちゃいけないと。
論文は、明らかにおとんを追い詰めていた。
たまに見かけたおとんは、自分を責めながら机に向かっていた。自分をなじって、追い詰めて、おとんはボロボロだった。
ある夜、眠れずに起きていると、おとんが台所に立っていた。
「おとん」
久々に会えたのが嬉しくて、俺はおとんに声をかけた。
おとんは何も言わずに俺を見ていた。包丁を手にしていたのを見て、当時の俺はのんきに、何か夜食でも作るのかなと考えていた。
おとんはどこかぼんやりと尋ねた。
「俺、論文書くん、やめたがええんかな」
ガキの俺は、無理解だった。
こんなに苦しんでまで大学に戻ることに、意味があるなんて思えなかった。論文への執着さえなくなれば、おとんは幸せだと思った。これ以上続けて、おとんが壊れてしまうのが怖かった。
だから「やめたがええよ」と、答えてしまった。
「……そうか」
おとんは笑った。
笑顔だったはずなのに、なんだかひどく怖かった。
俺は「もう寝よ、おとん」と声をかけた。おとんは曖昧にうなずいて、また、どこか遠くを見ていた。
翌朝。
目を覚ますと、おとんはどこにもいなかった。
母は静かに泣いていた。姉も黙りこくっていた。
俺が、間違えたせいだと、すぐ分かった。
おとんは、きっともう限界だった。
本当に必要だったのは、応援の言葉だった。
今なら、10代そこらの子どもに求めるべきものじゃないと、理屈でなら分かる。
当時の俺には支えられっこない苦悩だったことも、おとん自身の問題だったことも、今の頭では理解出来る。
それでも、痛かった。
俺がおとんを想ってかけた言葉は、張り詰めていた絶望があふれ出すに十分な、トドメだった。
あのときの言葉を間違えなければ、おとんはまだ、家にいたんじゃないか。
俺が、繋ぎ止められてさえいられれば。
俺が、間違えなければ。
深く刺さった後悔は、俺を変えた。
相手を深く知って、人との縁を繋ぎ止められる俺にならなきゃいけないと思った。
おとんがそばにいたいと思えるような息子だったら、きっと、違う言葉をおとんにかけられた。自分本位の心配が、おとんを突き落とした。
友だちといるときの俺、母といるときの俺、姉といるときの俺。
もう誰との縁もちぎれないよう、相手に合わせて俺を変えた。
読書する俺の姿がおとんを思い出させてしまうと知ってからは、家族の前で本を読むのを止めた。
母の再婚を機に、新しい父が好むような、元気で明るい男の子として振る舞うようにした。
そうする傍ら、こっそりおとんの書斎から本を抜き出して、家族が寝静まってから読みふけった。
本を通じて、考えや思いを辿った先に、おとんがいる気がした。
本に残された書き込みやメモから、おとんの見識の深さを知った。専門書に混じったエッセイ本からは、肩の力を抜いて穏やかに笑うおとんが見えた。
書斎は俺にとって、消えてしまったおとんに会える魔法の部屋だった。
同時に、おとんのことなんて、何一つ知らなかったのだと思い知らされた。
やがて書斎の本を読み終えた。
おとんの足取りは、掴めないままだった。
大人になった今。
俺は、いろんな人との縁に恵まれている。
家族も明るく仲良しで、仕事も楽しく順調で、俺の人生は、満たされているのだと思う。
これ以上を望むのは強欲だと分かっているのに、胸に刺さった後悔は、今でも抜けないままでいる。
著:佐久田 葉